「おいしい」は、どこで生まれる? — 第1回 / 全5回
風邪で鼻が詰まると、いつもの食事が物足りなく感じることがあります。甘い、しょっぱいといった感覚は残っているのに、料理らしさが薄い。私たちが普段「味」と呼んでいるものは、舌だけの仕事ではないからです。
食べ物の味わいには、味覚、嗅覚、温度、食感などが重なります。第一回では、甘さや塩味を感じることと、「リンゴらしい」「コーヒーらしい」と分かることを分けて考えます。どちらも大切ですが、同じ情報ではありません。
甘いだけでは、果物の名前は分からない
砂糖を含む食べ物は甘く感じられます。しかし、甘さだけを取り出した情報から、桃か、梨か、リンゴかを確実に当てることはできません。果物を特徴づける香りや、酸味、食感なども手がかりになります。
味覚の代表的な分類は、甘味、酸味、塩味、苦味、うま味です。日常で使う「濃厚」「爽やか」「香ばしい」は、この五つと同じ分類の言葉ではありません。脂肪の口当たり、温度、香りなどを含めた総合的な印象を表すことがあります。
この言葉の違いを意識すると、「鼻が詰まると味がしない」という経験も整理できます。すべての味覚が消えたという意味とは限らず、香りが得られにくくなって、食べ物を識別する情報が減っている場合があるのです。
香りには、二つの入口がある

食べる前、鼻先から吸い込んだ空気に含まれる香りを感じます。これは、カップへ顔を近づけてコーヒーを嗅ぐときの経路です。一方、食べ物を口へ入れた後にも、香りの成分は鼻へ届きます。
かむことで食べ物が細かくなり、口の中で温まり、香りの成分が放出されます。それが口の奥から鼻の方へ届く経路を、レトロネーザル、つまり口側からの嗅覚と呼びます。鼻は前だけでなく、口の奥につながる側からも、食べ物の情報を受け取っているのです。
飲み込んだ後にふわりと残る香りを、私たちは口の中の味だと思うことがあります。感覚の起点を意識するのは難しくても、実際には複数の経路から情報が届き、一つの食体験としてまとまっています。
舌の地図は、きれいに色分けできない
「舌の先は甘味、奥は苦味」と、舌を区画に分けた図を見たことがあるかもしれません。しかし、特定の味をその場所だけで感じるという意味なら正しくありません。味に反応する細胞は、舌の特定の一角だけに専属で配置されているわけではないからです。
場所による感度の違いがあることと、担当する味が完全に分かれていることは別です。地図のように境界線を引くと覚えやすい反面、甘い飲み物を舌の奥で感じないはずだ、という誤解を生んでしまいます。
今回の図では、舌を五つの領域へ分割しません。代わりに、口からの味覚と、鼻へ届く香りの経路を別々に描きます。食べ物を認識するために、異なる情報が集まっていることを表すためです。
同じ果物でも、切り方で印象が変わる

丸ごとの果物、切った果物、すりおろした果物では、香りの放出のされ方や口当たりが違います。材料の名前が同じでも、口へ届く情報まで同じになるわけではありません。
また、食べ始めの印象と、かみ進めた後の印象も違います。最初には外側の香りや表面の感触があり、次に果汁や内部の香りが広がります。味わいは一枚の写真というより、短い時間の中で変わる出来事です。
だから、「この食品は甘い」という評価だけでは、食べたときの豊かさを言い切れません。甘さの強さが同じでも、香りの種類、広がり方、かみ応えが違えば、食べ物としての印象は変わります。
資料を読む|味覚と嗅覚を分ける意味
米国NIDCDの解説では、味覚と嗅覚の密接な関係と、食べ物の香りが口側から鼻へ届く経路が説明されています。APAの心理学辞典も、レトロネーザル嗅覚を味覚と混同しやすい感覚として整理しています。
この区別は、「鼻の方が舌より偉い」と順位を付けるためではありません。どの情報が減ったときに、何が変わるかを考えるためです。香りが十分に得られなくても、食感や温度の楽しみまで必ず失われるとは限りません。
ここで扱うのは通常の感覚の仕組みです。長く続く嗅覚・味覚の変化を、単なる思い込みや気分の問題と決めつける意図はありません。日常の観察と、症状の原因を調べることは分けて考えます。
食べながら、言葉を三つに分けてみる
いつもの果物や食事を口にしたとき、「甘さ・塩味など」「香り」「口当たり」の三つを別々の言葉にしてみましょう。鼻をふさいだまま無理に食べたり、目隠しで食品を当てたりしなくても、普段の食事で十分に観察できます。
例えばリンゴなら、甘さと酸味、果物らしい香り、かんだときの硬さと果汁。それぞれを取り出してみると、一口の中にいくつもの情報があると気づきます。次の一口では、どの情報が先に来るかにも注目してみてください。
「おいしい」は、食品に一つだけ貼り付いた数値ではありません。食品の性質と、私たちが受け取る感覚が出会って生まれます。次回は、その中でも少し変わった感覚、唐辛子の「熱いような辛さ」を見ます。本当に温度が上がったのでしょうか。
参考資料
- NIDCD「Taste Disorders」
- NIDCD「Smell Disorders」
- American Psychological Association「retronasal olfaction」
資料確認:2026年10月26日。本文の資料紹介は、明記した場合を除き当サイトによる要約・説明です。
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