「おいしい」は、どこで生まれる? — 第5回 / 全5回
初めて飲んだときは苦いだけだったコーヒーが、いつの間にか楽しみになる。子どもの頃は避けていた野菜を、大人になっておいしいと思う。こうした変化を「舌が大人になった」と表現することがありますが、それだけでは説明しきれません。
苦味をどのくらい強く感じるかと、その食べ物をどのくらい好きかは、別の問いです。感度が高くても好きなものはあり、苦味が弱くても好みとは限りません。連載の最後は、生まれつきの違いと、経験から変わる部分を分けて考えます。
苦味は、一種類の物質の名前ではない
甘味を感じる物質が砂糖一つではないように、苦味を感じさせる物質も多様です。人には苦味の受容に関わる複数の受容体があり、反応する物質の範囲が違います。ある物質への感度から、すべての苦い食べ物への反応を決めつけることはできません。
遺伝的な違いによって、特定の苦味物質の感じ方が変わることが知られています。しかし、その違いだけで「この人は絶対にコーヒーを飲めない」といった予測ができるわけではありません。飲み物全体には、香り、酸味、温度、口当たりなどもあるためです。
苦味は、自然界で好ましくない物質を避ける手がかりになり得ますが、「苦いものはすべて有害」「苦くないものは安全」という判定法にはなりません。味覚は食品の安全性を完全に分析する検査装置ではありません。
「苦い」と「嫌い」は同じ目盛りではない

コーヒーを飲んで「苦いけれど好き」と言うことは矛盾しません。苦味の強さの評価と、好ましさの評価を別々に答えているからです。スポーツで疲れを感じながら楽しむことがあるように、感覚の強さと、その経験に付ける価値は一致するとは限りません。
飲み慣れるうちに、苦味以外の特徴へ注意を向けられるようになる場合もあります。香ばしさ、果実を思わせる香り、酸味、後味。最初にはひとまとめに「苦い」と感じていたものを、細かく区別する言葉が増えることも、楽しみ方を変えます。
ただし、慣れれば全員が好きになるという意味ではありません。繰り返し出会うことが、好みを変える場合もあれば、変えない場合もあります。苦手であることを未熟さと結びつける必要はありません。
食べ物は、経験と一緒に覚えられる
味や香りは、食べたときの状況と結びつきます。落ち着いて休めた時間、家族との食事、よく通う店など、食品そのもの以外の記憶も、その食品に対する期待へ関わります。
研究では、ある香りを好ましい味や、摂取後の作用と組み合わせて経験させた後、好みが変わるかを調べる方法があります。これは「好きなものの近くに置けば何でも好きになる」という単純な法則ではありません。何と組み合わせるか、以前の経験があるか、参加者がどんな人かで結果は変わります。
コーヒーの場合、カフェインの作用を含む学習も研究されています。ただし、日常の好みをカフェイン一つで説明することはできません。カフェインを含まないコーヒーを好む人もおり、香りや習慣などの要素も考える必要があります。
年齢だけで、好みを説明しない

成長や加齢に伴って感覚の働きが変わることはあります。しかし、大人になって好きになった食品を、すべて「味覚が鈍くなったから」と説明するのは乱暴です。食べ方、調理法、食文化、経験の幅も同時に変わるからです。
同じ野菜でも、ゆで方や炒め方、組み合わせる材料が違えば、得られる感覚は違います。昔食べたものと、今食べているものが、実は同じ条件でないこともあります。自分の感覚が変わったのか、料理が変わったのか、その両方なのかを分けると、話が具体的になります。
「子ども向け」「大人の味」という表現は、商品の雰囲気を伝えるには便利です。でも、人の感覚や好みを二つにきれいに分ける科学的な境界ではありません。
資料を読む|経験による好みの変化
Yeomansらの研究では、日常的にカフェインを摂る参加者を対象に、新しい飲料の香りをカフェインや味の条件と組み合わせ、好ましさの変化を調べています。対象者と手順が限られた実験なので、そのまま全員のコーヒー好きの原因とすることはできません。
NIDCDの解説も、遺伝的な違いが味への感度に関わり得ることを紹介しています。この記事では、生物学的な感度と、経験による評価の変化を二つの軸として整理しました。どちらか一方だけで決まる、という説明を避けるためです。
図解に「苦味の強さ」と「好きの度合い」を別々に置いたのも、そのためです。苦く感じなくなったことと、苦いまま好きになったことは、異なる変化として考えられます。
感じる強さと、選びたい気持ちを別々に記録する
同じコーヒーを飲んで、苦さは強いが好きと答える人も、苦さは弱いが好みではないと答える人もいるでしょう。強度と好みを一本の目盛りにすると、この違いが消えます。自分の感想でも、苦さ、香り、口当たり、飲みたい気持ちを別に書くと変化を捉えやすくなります。
砂糖やミルクを加える、飲む場面が変わる、香りに慣れるなど、経験には複数の要素が含まれます。何度も飲んだ後に好きになったとしても、苦味を感じる能力が弱まったとだけ説明することはできません。好みが変わる理由は一つとは限らないのです。
また、研究で集団として好みの変化が見られても、誰もが必ず同じ食品を好きになるという約束ではありません。苦手なものを無理に摂る課題にせず、自分が何を好んでいるかを知る読み物として考えます。大人になって味が分かるようになったという表現の中にも、感度と経験と意味づけが重なっています。
聞き手ここが気になる
苦いものが好きな人ほど、味覚が優れているんですか?
案内役一緒に整理しよう
好みは能力の順位ではありません。感じる強さと好き嫌いを分ければ、人それぞれの経験や食べ方を、優劣を付けずに説明できます。
好みを説明する言葉を増やそう
いつもの飲み物について、「苦いか」「好きか」に加え、「どの香りが好きか」「どんな場面で飲みたいか」を考えてみてください。食べ慣れないものを無理に口にする必要はありません。すでに好きなものを詳しく言い表すことも、十分に発見になります。
同じ飲み物を飲んだ相手が違う感想を持っても、どちらかの舌が間違っているとは限りません。感度、経験、注意を向けた点が違う可能性があります。意見が違うこと自体が、一口の中にいくつも手がかりがある証拠になることもあります。
この5回では、香り、化学的な刺激、温度、音、経験を見てきました。「おいしい」は成分表だけにも、気分だけにも還元できません。食品の性質と、感覚の仕組みと、積み重ねた経験が出会う場所。それが、毎日の食卓なのです。
参考資料
- Yeomansほか(2007)Additive effects of flavour–caffeine and flavour–flavour pairings on liking for the smell and flavour of a novel drink
- NIDCD「Taste Disorders」
資料確認:2026年10月26日。本文の資料紹介は、明記した場合を除き当サイトによる要約・説明です。
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